どこへむかうのか

最近、アクセサリー制作をしていて、違和感がある。
なにか置き忘れてきたような、そんな感覚。

飛び続けたことりが地面を歩くことを知っていく、そんな物語がわたしのブランドのコンセプトにはある。
それは、わたし自身が経験してきて、苦しくて仕方がないことが当たり前だった、つまりそれに気が付かなかった時期を経て、歩くことを知り、今があるからだ。
きっと、同じように無我夢中で空を飛んでいて、突然落っこちることを繰り返している人がいるに違いない、そんな人たちに「足もあるんだよ、歩けるんだよ、歩いていいんだよ」を伝えるのが、歩き方を知ったわたしがやるべきことだと思った。そうしたいと今も思っている。

福祉や被災地のパートナーさんたちと歩くことを決め、わたしが育った環境に近い子供たちへの支援を決め、それは揺るがない。わたしの人生とは切っても切り離せないものだから。

でも

問題は、自分自身の制作の目指すところである。

今、パート・ド・ヴェールというガラス技法の工房に通い、アクセサリーの制作をしている。
わたしが初めてアクセサリーをつくったのは「糸」だった。
それが草木染めの糸になり、ガラスを組み合わせ今の形になっている。

「変わるものと変わらないもの」
にんげん

それをつくっている。

制作方法は工芸。アクセサリーはファッション。
アクセサリー業界はレッドオーシャン。飽和状態だ。

わたしがやっているのは、なんだ?
ふとわからなくなった。

デザインをするのか、アートをするのか。

お守りとしてのアクセサリーづくりは続けていきたい。
自分の現在地を、表情を、気持ちを写す鏡としてのアクセサリー。
自分のために着けるものだから、きらびやかでなくてもいいというのが私の持論。
着ける人が安心して納得して、寄り添うものに出会えるのがいちばんだと思っている。
今やっているのは、デザイン。身に着けた人の物語が輝くようなものをつくるべきだと思っていた。でも、上っ面だけになっていないか。そう感じた。

初期のアクセサリーには一つ一つ、詩をつけていた。
それがわたしの表現だった。

物語を着け手にゆだねた今、わたしは欲求不満に陥っている。
表現したい。
でも、わたしの物語を作品として提示して、
受け手はそこに縛られてしまわないだろうか。
自分の物語を生きてほしいと願いながら、それをするのはどうなのだろう。
Bの黒鉛筆でふわっとくるくるしたようなもやもやがわたしのなかを占めている。

わたしが受け手だったら、

重なる部分があったら嬉しくなるだろう。
違う部分があったら、そういうこともあるんだと知るだろう。時間が経って、重なったときに気が付くこともあるかもしれない。

一粒のピアスをつくった。
つかいやすいから、売れた。
違う色も作ってみた。

ちがう、そうじゃない。そうじゃないんだ。

工芸は手間も技術も必要で、絵描きに喧嘩を売るわけではないが、SNSでよさもなかなか伝わらない。
でも、わたしは工芸で物語をつくっていこうと思う。その物語のかけらとして、アクセサリーは存在するのがいいのではないか。

どれだけの時間がかかるのだろう。
諸先輩方を見ていると、わたしなんてまだまだひよっこ作家で、いや、作家と呼べるかどうかもあやしい。
でも、飛び続けていたわたしに歩き方を教えてくれた人がいて、やっと自分の人生を歩めるようになった。応援してくれる家族も仲間もいる。

やるしかないだろう。

どこへむかうのか。

わたしの目指すところは見えない。
ただ、感覚研ぎ澄ませ、手を動かし、地面を踏みしめ歩いていく。